日本開道の経緯

恩師御在世中、昭和18年(1943年)夏、上海にご来臨の折、孫錫堃道長・馮悦謙前人・呉信学前人列席の上で浙江省温州開道の申請があり、恩師は呉前人に特命を授けてから、時局の重大さと道務の激変を憂慮なさり、上海にも日本の方々が求道に来て処理に難儀している旨を申し上げた所、はからずも恩師ご自身の口から、「やがて、日本の衆生を救わねばならない」と洩らされた。

孫道長は、「何時頃になりますか」と、質問した。

「鶏が刻を告げる頃まで待たれよ」と師は意味深長に答えられた。

「是非、日本への伝道の許可を願います」と申し上げた。

当時、戦争中で両国の間に勿論、往来の自由がないのをご承知の上で、何故このような問答がなされたのか。

すべては霊格の高い方々のお言葉の中に交わされたのである。

時に、恩師はおごそかに「日本ですか。文字を同じくし、人種を同じくします。

信佛の人も多いことです。

結構です。

戦争もじき終わります。

台湾の人はみな、日本語を使えますからこの地の人材によって行けばよいですよ」と。

乙酉年が昭和20年(1945年)で、第二次大戦の終結である。

師は癸未年(昭和18年)から乙酉年まで2年待つように預言されたのである。

 師の予言通り昭和24年(1949年)己丑冬季大典に陳庚金(前人)・周兆昌(前人)が台湾を出発、厳寒の中、決死の九日九夜を経て有史以来待望の道が東島(日本)に伝えられたのである。
参考;聖訓、結縁訓、道書、日本開道を命ずる書(台湾天浩総壇御聖訓)・日本開道(天道開発日本三十年経史・領導周兆昌前人結縁文
タイトルとURLをコピーしました